夏の日の終わりに

 僕の目の前には随分と久しぶりに見るエレクトーンの鍵盤があった。

 先ほどからぎこちなく指を動かしているのだが、奏でる音と言えばとても音楽とは呼べるようなものじゃない。

「ああ、もう!」

 荒々しく椅子を立つと、そのままスイッチを切って部屋を出る。誰もいない今だからと練習を始めたが、それは長く続くものじゃなかった。


 今はがらんとした部屋に入ると、酸っぱい祖父の匂いが鼻をつく。やはりもう祖父はいない。

 そんな感傷に耽りそうになる僕を、縁側からペロがじっと見つめていた。

「お前も寂しいのか?」

 縁側に腰を下ろすと、その頭をこすり付けてきた。そして返事をする代わりに小さく鼻を鳴らした。

 僕はその頭を何気なく撫でながら、どっしりと重いため息をつく。すると手の中からするりと頭が抜け、代わりに舌の感触が指にまとわりついた。

「なんだ、どうしたのかって?」

 僕が辛いときは、この犬はいつもこんな顔で見上げてくる。そしてそばを離れようとはしなかった。小学校からずっとだ。


 理子が抱えている問題に比べたらそりゃ小さな問題だった。しかし、僕の中ではこれがなかなか大きなものだ──


「え、脩君ってエレクトーン弾けるの?」

 理子と交流を持ち始めてすぐくらいの頃だ。音楽好きの理子と会話をするうちに、そんなでまかせを言った。

 ちょっと食いついてくれれば話が弾むかな、という程度の軽い気持ちだ。

 と言っても全くのでまかせとは言えない。確かに幼少の頃、母親のわがままで無理やり習わされたことがある。しかし、どうにも嫌ですぐに辞めてしまい、それ以来鍵盤にも触ってないのだから弾けるとはとても言えなかった。

 現実に「ネコ踏んじゃった」だって弾けないだろう。

「う、うん。まあね」

 そうだな、「チョウチョ」くらいなら弾けるかもしれない。

「偶然、あたしもエレクトーンやってるの!」

「ええ!?」

「いつか聴かせてよ」

「あ……うん」
< 111 / 156 >

この作品をシェア

pagetop