夏の日の終わりに
 これは食いつきすぎだ。「しまった」と顔をしかめる僕をよそに、理子の舌は止まることなくエレクトーンの話を繰り出してくる。

 防戦一方の僕は何とか話をはぐらかそうとしたが、理子はその話題を頑として譲らなかった。


 理子が退院して家に行く機会が増えるにつれ、その話題を振られることが多くなる。

「昨日ちょっと突き指しちゃって……」

「あ、しまった。約束があるの忘れてた!」

「メーカーが違うからちょっとどうかなあ……」

 そろそろそんな言い訳も尽きてきたところで、仕方なく練習を始めたというわけだ。

(つってもなあ……)

 本屋に行って楽譜つきの音楽雑誌を買ってはみたものの、そこには「A、B、C……」とアルファベットが並んでいるだけで、かつて見たおたまじゃくしの姿はどこにもない。

 有名な曲はすぐに腕のほどがバレてしまうので、理子の知らない洋楽を楽譜も無しに練習していたが、もちろん一向に上達する気配などなかった。


「どうしよっか?」

 愛犬にそう訪ねると、ぷいと身をひるがえしてそそくさと庭の芝生に寝転ぶ。

『自業自得でしょ。心配して損した』

 なんて声が聞こえてきそうだ。ついでに大きなあくびまでして居眠りを始めてしまった。



 そんな事で悩んでいた後日。森君に妙子さん、釘尾さんまで顔を揃えてちょっとした同窓会を開くこととなった。もちろん会場は理子の家だ。

 それまでバカみたいに騒いでいた僕だったが、その理子に言葉で一瞬にして凍り付く。

「そうそう、脩君もエレクトーン弾けるんだよ!」

(なにい!)

 思わず食っていたものを喉に詰まらせそうになった。いや、この場合はその状況になったほうがむしろ幸せだろう。

 まさに絞首刑台を目の前にした囚人の心境だ。

「ええー、あたし聴きたい」

 妙子さんは笑ってその背中を押してくる。

「へえ、僕も聴きたい」

 正直デブに聞かせる音楽など僕は持ち合わせていないつもりだ。

「意外だな。弾いてみろよ」

 僕はこのヤンキーを今すぐ車で轢いてやりたくなった。

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