夏の日の終わりに
 そんな茶番劇を見せられて気分は悪かったが、ヒゲは慎重な林医師とは違い、大胆なリハビリ計画を持ちかけてきた。

「歩行訓練をそろそろやってもいいんじゃないかな」

 憂うつだった気分を吹き飛ばすように、僕は拳を握り締めて小さくガッツポーズをした。

(話せるじゃん!)



 腰の深さくらいの細長いプール。

 両脇の手すりにつかまり、体重をなるべくかけないようにして始まった歩行訓練は、当初こそちぐはぐな脚の運びだったものの、すぐにザブザブと水を押しのけて歩けるようになった。

 さすがに回復が早いと、それを見ながらヒゲも満足そうな表情を浮かべた。


 歩行訓練にも慣れたころ、僕と理子は談話室でジュースを飲んでいた。

「脩君もそろそろ松葉杖かなあ?」

「さあ、どうだろ。自分ではもうイケると思うんだけどな」

「いよいよ脩君も松葉杖かあ……」

 その表情に物憂げな影落とす理子。続いて小さなため息をついた。

 理子の心情が、このとき痛いほど僕には分かった。

 これまで何人もの入院患者と交わりをもったと思う。その人々はほとんど例外なく理子より先に回復し、退院していったのだ。

 僕にしたって、美香さんが退院するときのあの寂寥感は記憶に新しい。

「理子、どっちが先に退院出来るか競争しようぜ」

 そんな提案を持ちかけてみる。

「えー、脩君のほうが早いよ」

「そんなの分かんないだろ。勝ったほうが……」

「勝ったほうがなに?」

「ん……考えとく」

 ここに至っては、僕のほうが先に退院するのは明白だ。しかし、何とか元気付けてあげればと、あえて挑戦的な提案をしてみただけだ。

 半分口からでまかせ。あとのことは考えていなかった。
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