夏の日の終わりに
「イチニ、イチニ……」

 松葉杖というのは、杖に脇を乗っけて体重を預けるものじゃない。脇に挟んで、腕の力で体重を支えるのだ。

 意外と使ったことのない人はそれを知らない。かく言う僕もそうだった。

 片足だけが使えない人は三点歩行と言う歩き方をする。しかし両足が悪い場合は、複雑に杖と脚を運ぶ四点歩行という歩き方をしなければならない。

 四本足の動物になったとしたら、急には繰り出す脚にとまどうことだろう。

 今の僕はそんな感じだった。

「意外に難しいね」

「すぐに慣れるわよ」

 僕の脇で体を支えてくれているのは松阪さんと言う看護師だ。この看護師は男性患者からは絶大な人気があった。

 そりゃ当然だろう。

 大学病院には珍しく際立った美貌に常に赤いルージュをひき、ナース服の下からのぞく脚はすっとくびれてしなやかだ。

 ただ、女性患者からはあまり評判がよろしくない。

(女の嫉妬は……)

 僕の解釈ではそんなものだ。しかし、僕らに見せる優しさとは違い、女性患者に対してはかなり冷たい看護を見せるのだと、他の中年女性の患者は口をとがらせていた。

 しかし僕などは、チラリと横顔を見るだけでも心がかき乱される。

 この場合、好きと言う感情と心乱される感情はまた別のものだ。そこに愛おしさというものが存在しないからだ。

 しかし、その区別が出来るほど、この頃の僕は大人じゃない。

(俺には理子がいるんだし)

 ほとほと男の性というのはどうしようもないものだ。



 その歩行訓練をきっかけに、松阪さんは妙に僕をかまってくれるようになった。
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