夏の日の終わりに
 しばらく息を荒くしていた松阪さんは落ち着きを取り戻すと、一転して僕に微笑を投げかけてきた。

「こんなことしちゃダメよ。やるなら病院の外でしなきゃ」

「はい……」

 その豹変ぶりには少し背筋が寒くなるほどだ。

 僕の松阪さんに対する想いはすっかり冷めてしまった。元々、一時は舞い上がった僕だったが、冷静に考えて見れば高校生を少しからかってみただけだろう。

 それなのにあそこまで激怒するとは思いもよらなかった。よほどプライドが高いか、もしくは相当独占欲が強いとみえる。

 僕がそんなことを考えているとは露知らず、もう一度カーテンを閉めると松阪さんの顔が近づいた。僕はたぶん硬い表情だったと思う。

「退院したらウチに遊びに来ない?」

 耳元に唇を寄せて、彼女はそう囁いた。

 化粧品の香りが鼻腔をくすぐる。その魅力的な申し出は、僕の性欲を確かに刺激した。

 しかし──

「いやだね」

 僕は顔を背けて言い放った。

「ああ、そう!」

 途端に先ほど見せた顔を取り戻した彼女は、荒々しくカーテンを開け放つ。そして一瞥するとそのまま足早に廊下へ飛び出して行った。

(おー、こわ……)

 眉毛を上げて口をへの字に曲げると、そのまま車椅子に飛び乗る。なんだか悩んでいたのがバカらしくて自分に苦笑した。

 三つ先の部屋の前で車椅子を止める。そしてその部屋に向かって声を掛けた。

「理子、遊びに行こうぜ」

 予想通り泣いていた理子が赤い目のまま振り返る。僕が手招きするとその顔が微笑みに変わった。


 もうそばにいてやれる時間は限られている。その時間を大事にしたかった。


 そんな思いがあっても時の流れは変えられないし、いくらそばにいてやりたくても、僕も脚を回復させることをやめる訳にはいかない。もう松葉杖さえあれば、日常の生活に支障をきたすことはなくなっている。



 そして退院の日が決まった。
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