夏の日の終わりに

夏の夜長に

 決断の日から一週間ほど経った夜。電話を取った母親が二階の僕を呼んだ。

「電話よ」

 いつまで経っても親子電話の使い方を覚えない母親に舌打ちすると、通話ボタンを押して「そっち切って!」と声を飛ばす。

 通話口の向こうは理子の声だった。

「退院決まったの!」

「マジで!」

 その言葉は意外だった。先日からの話ではとてもすぐに退院出来るような状況ではないはずだ。それでも喜びが疑問を上回った。

「よく頑張ったな」

「うん」

「良かった」

「うん」

「退院祝いやろうぜ、妙子さんと森君も呼んでさ」

 その話には続きがある。定期的な投薬は続けられるということだから、闘病の苦しさから逃れられるわけじゃない。それでも人生の中で一番輝く時間を二年間もあの薬品の匂いの充満する病棟で過ごしてきたのだ。そこから開放されるだけでも大きな喜びだろう。

 理子の失くした二年間、それを取り戻してやるのは僕の務めだ。



 退院の日、僕はほとんど乗ったことのないバスへと乗り込んだ。この日、理子の家で盛大に退院祝いが行われるのだ。久しぶりに顔を合わせるメンバーにも心が躍り、僕は浮き足立っていた。

 しかし、住み慣れた市内ではあっても、バスの路線は複雑怪奇なものだ。行く先から恐らく目的地を通るだろうと見込んだバスは、いきなり反対方向へと走り出した。

(どっちに行ってんだよ!)

 路線を間違えたことを悟り、すぐに降りてはまた別のバスに乗ったが、運転手はこれもまた見当違いの方向へとハンドルを切る。全国でもこれほどバス台数が多い都市は他にないそうだ。同じ名前のバス停が何十箇所もあるほどで、行き先は同じでも、その経由地点によってコースはかなり異なる。

 乗るたびに奴隷船に乗せられた黒人の気分を味わいながら、それでもようやく目的のバス停を降りると、時刻は約束の時間をとうに過ぎていた。
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