夏の日の終わりに
 もちろん返事を返す余裕などない。不器用に脚を上げ、Tシャツを通らない頭に焦りはピークに達した。

 部屋のドアノブが回ると、軽い金属音を立ててドアが開く。

「ただいま……」

 顔を覗かせたおばちゃんの顔はどこかいぶかしげだった。

「おかえりなさい」

 二人声を揃えて返事をすると、荒い息を隠すように肺に力を込める。心臓は喉から飛び出しそうなほど鼓動を早め、背中にはたらりと一筋の汗が伝った。

(間に合った……)

 つとめて平静を装う僕らを眺めたおばちゃんは、突如吹きだして笑い声を上げた。いや、正確には一瞬吹きだした笑いを噛み殺していた。

「お昼まだなんでしょ、そうめんで良い?」

「はい、何でモ!」

 僕の返事をする声が裏返ったのをきっかけに、今度は口を押さえて肩を震わせている。僕は何がなにやら分からず、愛想笑いを返すしかなかった。

「脩君、シャツ……う、裏返しになってる……」

 そこまでが限界だったのだろう。おばちゃんは誰にはばかることもなく声を上げて笑った。

「え、あ……何でだろう?」

 僕は相当複雑な表情で笑い、そして慌ててシャツを脱いだ。視界の端に見えた理子のつま先が、落ちたブラジャーをベッドの下に押し込んでいた。

(超やべえよ……)

 おばちゃんはまだ笑いながら階段を下りて行く。大きく息を吐きながらベッドに腰を下ろすと、足元の布団に気がついた。

 僕のために敷いてくれていた布団は、一糸乱れぬままそこにある。

(ホントやべえ)

 今さら無駄だろうが、僕は足でその布団を少し乱しておいた。


 その日のそうめんは、どれだけつゆに漬けても味がしなかった。

< 77 / 156 >

この作品をシェア

pagetop