夏の日の終わりに
 手術の朝、あれほど普段は悪態をついている祖父が、不安げに天井を眺めていた。

「じいちゃん、大丈夫だから。頑張れよ」

 僕が掛けた言葉もやはり「頑張れ」だ。やはりこういう時はその言葉が適切なのだろうか。

 祖父には喉にポリープが出来た、としか伝えてはいない。心配そうな顔付きで手術に向かう祖父と対象的に、僕はというと何の不安も感じてはいなかった。

 楽天的と言うよりは脳天気が正解のようだ。

 手術室の前まで付き添った僕はつとめて笑ってみせたが、祖父の顔は不安を貼り付けたままだった。

「心配すんなって。大丈夫だって」

「ん……」

 祖父を載せたストレッチャーが手術室の中へ消えた。僕はしばし立ち尽くして、そこで行われる術前の処置を思い浮かべる。自分の時と重ね合わせて、立場が逆転したことに運命の不思議さを感じていた。

 その術後、祖父は個室に移り、酸素マスクを付け、いかにも重病人の体に変わり果てていた。喉の手術の為、しばらくは声が出せないそうだ。苦しそうな表情は僕の胸を痛ませた。

「手術は一応成功しました」

 そう告げた担当医の言葉に家族とともに胸を撫で下ろし、これで祖父の危機は去ったと安心した。しかし──

 祖父の手術に気を取られていた頃、理子にも異変が起きていた。その言葉を聞いたとき、僕は手にした受話器を取り落としそうになった。

「また入院することになっちゃったよ」

「え、なんで?」

「再手術だって」

 混乱しながらも幸せが逃げていく感覚だけが頭に浮かんでくる。

 このまま快方に向かうと思っていたのだ。これから二人ともずっと良くなっていって、もっともっと遠くへ二人で遊びに行ったり出来るって、すごく幸せが身近にあると──


 あの時花火を見ながらそう思えたのに、だ。


「また腫瘍が出来たの」

 その腫瘍とはいったいどのようなものなのだろうか。理子の体に何が起こっているのだろうか。やるせない怒りと失望感を誰にぶつけたらいいのだろうか?
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