夏の日の終わりに
 赤い注射──

 それを打たれているのを確かに見た覚えがあった。大きな注射器からチューブを通して血管へ流し込まれていたのを。そしてそれは理子にではない。どうして気が付かなかったんだろうか。

 祖父が手術を行う前にいた大部屋。あそこの患者が、第二外科の患者がその注射を打たれていた。

『抗癌剤の副作用って苦しいみたいで。あれなら治療しないほうがマシに思えてくるのよ』

 その患者の奥さんが洩らしていた台詞が頭に浮かぶ。

『おじいさんの喉の腫瘍は……』

 祖父の担当医の言葉。

『また腫瘍が出来ちゃって』

 理子の言葉。


 そして、骨腫瘍──


 あのとき頭を触ろうとしたとき、激しすぎる拒否反応を不審に思わなかったのか。今まで髪型が一度も変わった事はない。なぜそれになんの不思議も覚えなかったのか。


 今まで頭に浮かんでいた不安と疑問が次々と一本の線で繋がっていく。



 頬に当たる頭の感触が、最後の疑問を確信にたどり着かせた。


 ヘアキャップ越しの頭──




 そこに髪の毛の感触は全く無かった。

 

(理子……お前は……!)

 
 無性に悲しくて、その悲しみは目からどっと噴き出した。

 僕は物心ついたときから涙を流した事はない。父親の教育からか、絶対泣かない子供として育ってきたのだ。泣いたのは祖母を亡くした時でしかない。

 でもこらえていた涙を、この時ばかりは止められなかった。
 
(まだ17歳の少女だぞ。どうして理子がこんな目に!)

 
 
 間違いなく骨腫瘍などという病気ではなく、骨肉腫という癌だ。否定しようと思っても心の底がそう認識していた。

 ならばなおさら泣いているのを悟られる訳にはいかない。嗚咽が出そうになるのを必死でこらえ、体の震えを押し殺した。そして、涙が止まるまで理子から離れられないでいた。


 代わってあげたかった。せめて苦しみを分けて貰いたかった。何も知らなかった事に後悔の念が激しく僕を責め立てた。

 
(ごめん……理子……)
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