白頭山の残光
「炭鉱夫の方ですって?でも、その先輩自身は貧農の子供として生まれ育ったんじゃないの?階層や成分は上がらないの?」
「さっきも言ったように、自分の成分を知る事はできない。だが、そういう事例から推測する限りでは、各人民の成分は三代前の父祖の職業や国家への貢献度で決まるようだ」
「それって、身分制度じゃないの?王朝時代に逆戻りしてない?」
「そう言われたらそうかもしれない」
美里はたまらず話に割って入った。在日朝鮮人である彼女には同じ在日朝鮮人の友人の事でどうしても看過できない事だったからだ。
「ソンジョン、じゃあ日本から北朝鮮に帰還した同胞の階層、成分は何なの?」
「日本からの帰還者はもちろん敵対階層だ。51成分の、一番下から何番目というところだろう」
そんな馬鹿な!美里は絶句した。1960年代の終わりから1970年代初頭にかけて盛んだった、在日朝鮮人の祖国帰還運動というのがあった。日本社会での朝鮮人差別から逃れて北朝鮮に再移住し、当時は「この世の楽園」と宣伝されていた北朝鮮の建国に参加しようというスローガンであった。
数千人の在日朝鮮人が赤十字団体の仲介で新潟港から船で北朝鮮に移住し、在日朝鮮人と結婚していた日本人も多く一緒に北朝鮮に移住した。だが、北朝鮮が「この世の楽園」であるという話がデマだという事はすぐに知れ渡り、帰還運動自体は1980年代半ばまで続いたが、応募する在日朝鮮人はほとんどいなくなって打ち切られた。
美里の朝鮮学校時代の友人の一人に、親戚がその帰還事業で北朝鮮に渡った子がいた。その友人の両親は、その親戚に会うために平壌を訪れた事があり、その時の話を美里はその友人から聞かされていた。
「でも、あたしの知っている在日朝鮮人の帰還者は平壌に住んで、それも立派なマンション暮らしだと聞いたわよ」
「それと成分は別だ。日本からの帰還者は在日同胞から仕送りを受けられる。そういう人は日本からの帰還者であっても政府が優遇するから、そんないい暮らしが出来る。だが、日本のバブル経済崩壊で在日同胞からの仕送りが途絶えた頃から、農村への移住を命じられる人たちが増えた」
「さっきも言ったように、自分の成分を知る事はできない。だが、そういう事例から推測する限りでは、各人民の成分は三代前の父祖の職業や国家への貢献度で決まるようだ」
「それって、身分制度じゃないの?王朝時代に逆戻りしてない?」
「そう言われたらそうかもしれない」
美里はたまらず話に割って入った。在日朝鮮人である彼女には同じ在日朝鮮人の友人の事でどうしても看過できない事だったからだ。
「ソンジョン、じゃあ日本から北朝鮮に帰還した同胞の階層、成分は何なの?」
「日本からの帰還者はもちろん敵対階層だ。51成分の、一番下から何番目というところだろう」
そんな馬鹿な!美里は絶句した。1960年代の終わりから1970年代初頭にかけて盛んだった、在日朝鮮人の祖国帰還運動というのがあった。日本社会での朝鮮人差別から逃れて北朝鮮に再移住し、当時は「この世の楽園」と宣伝されていた北朝鮮の建国に参加しようというスローガンであった。
数千人の在日朝鮮人が赤十字団体の仲介で新潟港から船で北朝鮮に移住し、在日朝鮮人と結婚していた日本人も多く一緒に北朝鮮に移住した。だが、北朝鮮が「この世の楽園」であるという話がデマだという事はすぐに知れ渡り、帰還運動自体は1980年代半ばまで続いたが、応募する在日朝鮮人はほとんどいなくなって打ち切られた。
美里の朝鮮学校時代の友人の一人に、親戚がその帰還事業で北朝鮮に渡った子がいた。その友人の両親は、その親戚に会うために平壌を訪れた事があり、その時の話を美里はその友人から聞かされていた。
「でも、あたしの知っている在日朝鮮人の帰還者は平壌に住んで、それも立派なマンション暮らしだと聞いたわよ」
「それと成分は別だ。日本からの帰還者は在日同胞から仕送りを受けられる。そういう人は日本からの帰還者であっても政府が優遇するから、そんないい暮らしが出来る。だが、日本のバブル経済崩壊で在日同胞からの仕送りが途絶えた頃から、農村への移住を命じられる人たちが増えた」