冬うらら~猫と起爆スイッチ~

 彼は無精して、いくつかのボタンをとめていなかったのである。

 確かに、一番上までボタンを止めなければ、ネクタイを締めることはできない。

 しかし、緊張しているような指先の動きが、カイトを生殺しにした。

 爪の先が素肌をふっと掠める。
 ざぁっとうなじの毛が逆立ちそうな感触を、息を殺して耐える。

 一番上の、首の詰まったところのボタンが、一番難儀だった。
 どうあっても、彼の素肌の喉元に指が触れるのである。

 全神経と血が、全てそこに集まってくるかのように思えた。

 ようやくボタンが全部とまってしまう。

 指が一度、彼から逃げた。

 ほぉっと安堵したのもつかの間。

 今度は、ネクタイを締められるのである。
 またも、緊張の時間が流れた。

「あの…」

 ネクタイをつつがなく締め終わった後――すぐ側から、茶色の目が見上げてきた。

 いま、危なかった。

 衝動的に、彼女を抱きしめてしまいそうだったのだ。

 本当に何の予備動作もなく無意識に。
 自分の腕の動きに我に返って、ぐっと押しとどめる。

 こんな残酷すぎる近い距離にいながら、彼らは本当にただの他人なのだ。

「明日は…もうちょっとはやく用意しますから…」

 だから。

 メイが、ぽつりと言った。

 また朝食の話に戻ったのである。

 彼女はこう言いたいのだ。

『だから、作るななんて言わないで下さい』、と。

 誰も作んななんて、言ってねーだろ!

 心の中では怒鳴れるくせに、カイトは声に出来なかった。

 彼女を見ていられなくて、思い切り横を向いて。

「……この時間に出る」

 それだけ絞り出すと、彼女の反応など見ずにその部屋を出た。

 早足で大股で、まるで、逃げるように。

 彼女の側は――宣言を揺るがすような危険がいっぱいだったのだ。
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