il tablo d'estate
作りたくなるし、食べたくなる。
購入する料理・グルメ雑誌や実際に食べたいものをレストランに食べに行くためのお金を稼ごうと、高校生になってからはバイトを始めた。
バイト代はすべて、そういう「料理」関係に消えている。
そして調理器具や材料なんかも、自分自身のお金から出すことにしている。
「家で作る分には、俺だって食べるんだし、普通に食費として家計から出せばいいじゃないか。」
と春樹叔父は言ってくれるけど、少なくとも、最初にチャレンジするものについては、自分でリスクを負ったほうが、真摯な感じがしていいと思うのだ。
野菜を刻んだり、パスタの生地を打ったり、きめ細かいスポンジ生地のために温かく湯煎した全卵を汗を浮かべながら泡立てたりしていると、日常生活で気づかぬうちに底にたまっていく澱のようなものが消えていくのが分かる。
自分で言うのもなんだけど、料理をしている時は、生きている中でもっとも純粋な時間の過ごし方をしていると思う。
わずらわしいほかのことすべてを忘れてしまう。
先がどうなるか分からない、でも、今全方位に、持つすべての感覚で挑んでいく。
もっと、もっとと思ってしまう。
進路のことをあまり気にしてない風の両親や、春樹叔父も、そんなわたしを見て言う。
「料理の道に進むのか?」
と。
わたしは、首を縦にも横にも振らない。
ただあいまいに笑って、その話にはそれ以上踏み込まない。
確かに料理は好きだ。
他に例えたり比べたり出来ない、わたしの情熱があると思う。
たぶん、だからこそだろう。
わたしはそれを「将来」にすることが怖いのだ。失敗したり、裏切られたりしたらどうしようと思う。
そんなことがあったら、もしもあったら、わたしは真っ暗になってしまう。
台所で、自分自身や近しい人たちのために何かを作るだけなら、悲しさや悔しさを味わうこともない。
「将来」に絶望しているわけでもない。
でもまったく気にならないわけではない。
皆が必死にテストスコアと向き合う中で、ごく自然に空気のように流されることにわたしはほっとしてしまうし、現実逃避だなあとしみじみ思う。
でも、料理をしているときの、料理のことを考えている時の、あの居心地の良さをわたしから奪い取らないで、と馬鹿みたいに切なくなるのだ。
購入する料理・グルメ雑誌や実際に食べたいものをレストランに食べに行くためのお金を稼ごうと、高校生になってからはバイトを始めた。
バイト代はすべて、そういう「料理」関係に消えている。
そして調理器具や材料なんかも、自分自身のお金から出すことにしている。
「家で作る分には、俺だって食べるんだし、普通に食費として家計から出せばいいじゃないか。」
と春樹叔父は言ってくれるけど、少なくとも、最初にチャレンジするものについては、自分でリスクを負ったほうが、真摯な感じがしていいと思うのだ。
野菜を刻んだり、パスタの生地を打ったり、きめ細かいスポンジ生地のために温かく湯煎した全卵を汗を浮かべながら泡立てたりしていると、日常生活で気づかぬうちに底にたまっていく澱のようなものが消えていくのが分かる。
自分で言うのもなんだけど、料理をしている時は、生きている中でもっとも純粋な時間の過ごし方をしていると思う。
わずらわしいほかのことすべてを忘れてしまう。
先がどうなるか分からない、でも、今全方位に、持つすべての感覚で挑んでいく。
もっと、もっとと思ってしまう。
進路のことをあまり気にしてない風の両親や、春樹叔父も、そんなわたしを見て言う。
「料理の道に進むのか?」
と。
わたしは、首を縦にも横にも振らない。
ただあいまいに笑って、その話にはそれ以上踏み込まない。
確かに料理は好きだ。
他に例えたり比べたり出来ない、わたしの情熱があると思う。
たぶん、だからこそだろう。
わたしはそれを「将来」にすることが怖いのだ。失敗したり、裏切られたりしたらどうしようと思う。
そんなことがあったら、もしもあったら、わたしは真っ暗になってしまう。
台所で、自分自身や近しい人たちのために何かを作るだけなら、悲しさや悔しさを味わうこともない。
「将来」に絶望しているわけでもない。
でもまったく気にならないわけではない。
皆が必死にテストスコアと向き合う中で、ごく自然に空気のように流されることにわたしはほっとしてしまうし、現実逃避だなあとしみじみ思う。
でも、料理をしているときの、料理のことを考えている時の、あの居心地の良さをわたしから奪い取らないで、と馬鹿みたいに切なくなるのだ。