前略、肉食お嬢様②―カノジョな俺は婿養子―
ある夜のこと。
自室に指定されている部屋で勉強をしていた俺は、ふと空腹を感じ、走らせていたシャーペンを止める。
夕飯を食べていても勉強すると腹は減るもんだよな。
今は何時だろう?
……22時半か。
どうしよう、我が家なら適当に冷蔵庫や戸棚を開けられるんだけど、此処は人様の家だしな。
まだまだ遠慮が抜けきれないため厨房に行くか、それとも我慢すべきか、少しばかり考え、後者を選択する。
御堂先輩に頼むのも手だけど、今は自室で演技の練習をしているだろうから邪魔をするのは気が引けるんだ。
「飲み物はあるんだよな」
この部屋にはミニ冷蔵庫があるし。
イチゴミルクオレが大量にあるから、それで腹を満たせばいいや。
あ、母さんが飴玉を持たせてくれたな。アレでも舐めてようかな。
「まずは水腹にして空腹を紛らわそう」
俺は机の電気を消して席を立つ。
明日の朝までどうにか持てば朝食が食べられ……、ん?
障子の向こうから何やら物音が聞こえた気がして、そちらに目を向ける。人影はない。
未だに修繕できていない障子を開けると気配こそなかったものの、微かに庭園から声が聞こえてきた。
夜風と共に聞こえて来るそれはすすり泣きに思える。
まさかお化けじゃないだろうな?
「屋敷って雰囲気出るもんな」
俺は顔を引き攣らせた。昼間(ちゅうかん)ならまだしも、夜間にすすり泣く声が聞こえる。ちょっとはビビるだろ?
スルーできるほどの度胸もなく、声の正体を探るために廊下に出る。
庭園の三和土(たたき)に向かい、草履を履いて外へ。柔らかな地面に降り立つと浴衣の両袖に手を突っ込み、声に誘われるがまま夜の庭を歩く。
次第次第に大きくなるすすり泣き。
貫禄ある椿の側で足を止め、首を捻る。
「あ」声を漏らした。
土蔵の陰でグズズビッと鼻を啜っているのは幽霊! ……ではなく、新人女中のさと子ちゃんだ。
蘭子さんに叱られたのか、それともヘマしたのか分からないけど、その場で膝を抱えて、ひたすら鼻を啜っている。
見てはいけない場面に遭遇してしまった気分だ。
もし俺がさと子ちゃんなら放っておいて欲しいところだろうけど、切迫した彼女の表情を見ていると、どうも放っておくこともできない。
彼女とはあまり会話をしないけれど、この際だ。
足音を立てず彼女に歩み、そっと肩に手を置いて話し掛ける。
ビクッと肩を震わせるさと子ちゃんがおずおず見上げてきた。
月明かりで分かるほど、あらら、酷い顔だな。涙で顔がぐっちゃぐちゃ。
チャームポイントのポニーテールも今は力なく垂れているように見えた。
その場にしゃがんで、「どうしたの。こんなところで」相手と目線を合わせる。
何でもないとかぶりを振るさと子ちゃんだけど、嗚咽は止まらず、ひっくひくと声が聞こえてくる。涙の量は増えるばかりだ。それに対して謝罪しようとするんだけど言葉にすらなっていない。
多分、女中と婚約者の立場を踏まえて気丈に振る舞おうとしているのだろう。
けれど俺は御堂家と違って偉い身分じゃない。
普通のリーマン家庭に生まれた庶民の息子だ。
なにより、今の彼女はちょっと前の俺と同じに見えた。
シビアな現実ゆえの孤独を背負(しょ)っているような、そんな感じ。
「何が遭ったのか分からないけど、もっと気楽にしていいよ。俺と君はタメなんだからさ」
身を萎縮しているさと子ちゃんが俺をチラ見してくる。
「今の君と俺は女中と主(あるじ)じゃなくて」
ただの一同級生だよ。
微笑んでやると、さと子ちゃんの泣声が一瞬途切れる。刹那、ぼたぼたと大粒の涙を流し、声を上げて泣き始めた。言葉が身に沁みたのかもしれない。
困ってしまったのは俺である。気楽にしていいとは言ったけれど、こんなにも泣きじゃくられると俺が泣かした気分になる。
なんだろう? この罪悪感は。