狂想曲
逃避
キョウの誕生日のあの日、この部屋に、真っ赤なおもちゃのピアノがやってきた。
人差し指でしか弾けないようなそれで、キョウはいつも、ドレミの歌やカエルの歌を、遊んでるみたいに弾く。
キョウの部屋で、キョウと暮らす毎日は、それなりに楽しいことで溢れていた。
「ねぇ、今日の晩ご飯、何にしよっか」
わざわざ購入した真新しい料理本を眺めながら聞いた私に、キョウは、
「焦げてないやつなら何でも」
「昨日のはちょっと失敗しただけでしょ。いつも焦がしてるみたいな言い方しないでよ」
「そうだっけ?」
「じゃあ、もういい。作らない」
「嘘だよ、そんな怒るなって」
キョウはいつも私を甘やかしてくれる。
だから私はそれに甘えきっている。
私は、料理本を閉じて、立ち上がった。
「とりあえず私、買い物行ってくるよ」
「外、夕方から雨降ってるぞ」
「知ってる。でも冷蔵庫の中、何もないし」
「しょうがねぇなぁ。なら、車出してやるか」
キョウも同じように立ち上がり、チェストの上に置いているキーケースを手にする。
私は「やったぁ!」と飛び跳ねた。
私たちは、傍から見ても、すごく仲のいいカップルだと思う。
「おい、携帯忘れてるぞ」
「あぁ、いいよ、別に。どうせ友達から飲みに誘われる電話があるかないかってくらいだし。それより早く行こうよ」
私はキョウの腕を引いた。
奏ちゃんからは、あの朝、長い着信が一度だけあったきりだ。
だけど、私がそれを取ることはなかったし、そしたらそれ以降、電話もメールも一度もない。
私は、あのマンションにだって、あれから帰ったりはしていない。