狂想曲
トオルさんはキョウのグラスを勝手に奪ってビールを傾ける。

私は帰りたくなった。


でも、それを察してくれたのはキョウだった。



「律、この人、俺の先輩。トオルさん。今はまともな格好してさびれた喫茶店のマスターとかに収まってるけど、昔は相当やばくてさぁ」

「全部その通りだけど、『さびれた喫茶店』とか言うなやぁ」


私はどう言えばいいかもわからず、「はじめまして」とほとんど棒読みに近い感じで言った。

トオルさんは「よろしくー」と私の言葉を受け流し、今度は鉄板の上の肉を食べ始める。



「あ、そうだ。お前さぁ、あの木ちゃんと育ててるか?」

「当たり前でしょ」

「るり、あれすげぇ時間かけて選んでたんだから、枯らすなよ」

「わかってるって」


私の前にある肉は、赤黒く変色していた。


るり、という、誰かもわからない人の名前だけが、宙に浮いたように取り残されて耳に残る。

あの幸福の木をキョウに贈った人。



「るりちゃん、元気?」

「キョウに会いたがってた」

「そっか。るりちゃんのピアノ聴きたいし、そのうちに会いに行くって言っといてよ」

「そのうちかよ」

「だって妊婦さんの前じゃ煙草吸えないっしょ? 今4ヶ月だっけ? 順調?」

「つわり治まったって言ってたな。何かちょっと丸くなってきた」

「へぇ。いいね、子供。トオルさんももうすぐパパだもんね」

「だな」

「まさかるりちゃんがトオルさんと結婚するなんて思わなかったけど。幸せにしてあげてね」

「お前から言われるとムカつく」

「何で」

「俺より前からるりのこと知ってるから」

「勘弁してよ。そんなこと言われても困るし。別に俺とるりちゃんの間に何かあるわけでもないんだから」

「わかっててもムカつくんだよ」
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