天体観測
二人の会話は、野球で表すなら、9回に差しかかっていた。お互い最後の攻撃に、最高の一手に、全神経を集中させている。

「だからね、あなたの講釈は聞き飽きたのよ。単刀直入に言ってくれるだけでいいのよ。こんな簡単なこと司は生まれた時から出来ていたわ。それ以来悪い方向にしか進んでないけど」

僕はそれを軽く聞き流した。こういうときは、何も言わない方が身のためなのだ。いつかの恵美とマスターの阪神タイガース談義のときのように。

「少年に、ここに帰ってきてもらう。それ以外の意味はないって言ってるやんか」

マスターが、横目で僕を見た。その目は、助けなどは求めていなかった。ただ、許可を求めるような、そういう目だった。僕は、頷いた。例え、母さんに何を言われようと、僕はやりたいようにやるのだから。

「少年は、司は、これからやらなあかんことがある。僕らには何も手助けしてやれへんことをやらなあかん。だから、せめて帰ってきたときにうまいコーヒーでも入れてやりたいんや」

意外にも、母さんは「そう。そういうことなのね」と言っただけで、それ以上何も追求してこなかった。拍子抜けとは、こういうときに使う言葉なのだろうか。とりあえず、僕は何故かひどくがっかりした。それと同じぐらい、使命感に燃えた。

「そういうことなんだ」と、言って、僕は席を立った。まだコーヒーは残っていたけれど、そんなことは関係なかった。

「気を付けろよ」と、マスターが笑って言った。

「うん」僕も笑って答える。

「危ないことはしちゃだめよ」母さんがさも心配していないかのように、気丈に言った。

「わかってるよ」僕はいつものように答える。

僕は恵美を見る。恵美は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「泣くなよ」

「うん」

「笑えよ」

「うん」

けれど、恵美は笑わなかった。恵美の頬を伝う涙を、僕は右手で掬い上げる。

「気をつけてね」嗚咽雑じりの声で、恵美が言った。

「今生の別れじゃないんだ。ただ、ちょっと事実関係を確かめてくるだけだ」

「うん」

「じゃあ、行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

僕は玄関に向かい、ドアを開けた。外は、僕が思っていたよりも、ずっと暑い。
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