独:Der Alte würfelt nicht.
――ふわふわとした浮遊感に身を任せながら、耳元で囁かれる様に繰り返されるカノンの声に耳を傾けた。
部屋いっぱいに広がるビーフシチューの匂いに、自然とお腹が空いてくる。
何でも器用にこなすエプロン姿の彼を見て、感嘆の声を漏らすしかない私。
少し味を見てあげようとお皿を片手に近寄ると、笑顔で制される。
『美味しく出来てるか見てあげるだけなのに。いつまでお鍋をかき回すの』
『そんなに食べたいなら口移しであげるよ。はい、口開けて…』
『遠慮するわ。それは私がレイとの新婚生活の時にするのよ』
『えー…アリス結婚しちゃうんだ、困ったな。…まぁ、人妻でも…それは色々とアリ、か』
思いの外上機嫌に鍋をかき回すカノンに、ポジティブだと逆に感心する。
ソファーに戻ろうとすれば、手に握っていた皿にとろとろになったビーフシチューを注がれる。
いつも綺麗に料理を盛り付けるカノンが、レードルの底を皿の縁で拭った。
器の外面に滴るシチューを親指で拭い、私の口の中に断りもなく突っ込んできた。
『おいし?』
『…逆よね』
『へ…?』
『こう言うのは逆よね。普通は逆よ、私が可愛いエプロンして照れ隠ししながら、ふふふって笑う場面よ。貴方はチートだわ、私の出来ない事ばかり出来るんですもの』
不貞腐れながらもスプーンでビーフシチューを口に運べば、とろりと蕩ける具材。
あまりの至福に顔が弛んでしまうのを、カノン君は笑いをかみ殺してみていた。
その瞬間、カノンの顔がぐにゃりと曲がり…まるで粘土のように地面にボロボロと崩れていく。
目の前が漆黒の闇に包まれたと思えば、足元に落ちた泥が今度は何かを形成していった。