独:Der Alte würfelt nicht.
「――ふんふふん~ッらーらーらら~ッ♪」
100メートル走で、走り出すための合図を聞き逃した時、どうすればいい。
人より数秒遅れて走り出すか、それともコースを外れて諦めるか。
どちらを選ぶにしろ、負けるということには間違いないだろう。
ちなみに私は100メートル走を走れば19秒かかる。
走る前から負けは決まっているが、それでも走らなければいけないこともあるのだ。
「まったく、恋人だって言ってるのに看護士さんも酷いな。待っててね、アリス。今度こそ僕が、君の滑らかな肢体にしっとりと浮かんだ汗を丁寧に拭って上げるから…ッ!」
――嗚呼、幼き日に私の初恋を奪い去ったハートの王子様は…もう居ないのね。
カノン君が濡れタオルを片手に、目をギラギラさせて私に近寄ってくる。
今まで私の貞操を守り続けてくれた看護士さんに心から感謝しながら、いつ蹴り飛ばそうかタイミングを計る。
私が目覚めた時には病室に人の姿は無く、カノン君に発砲された後、担ぎ込まれたのだろう。
疲労に耐えられずもう一眠りしようと横になった時、看護士さんと何やらもめながらカノン君が病室に入ってきたのだ。
「嗚呼、綺麗だよ…服のボタン、外そうか」
「………」
「ん、なかなか取れないや。起こさないようにぃ~っと」
「………ッ」
だから…その、少し…ほんの少しだけ乙女チックな展開を期待したのだ。
もう一度目を瞑って、狸寝入りをしながらカノン君が近づいてくるのを待った。
手を握って、私の名前を呼んで…それに答えるように目を覚ましたら、きっと素敵だろうって。
でも目の前の男は私が起きるより、眠り続けていることを望んでいるらしい。