独:Der Alte würfelt nicht.
「…分かったわ。今日の所は身を引く。でも、明日レイに会いに来る。それでもいいのなら貴方についていくわ。どう?」
「交渉成立。善は急げだ。今晩は寝かせて貰えそうにないから、君の部屋に泊まる事にするよ。お揃いのパジャマを買わないとね」
「…言い回しに今更何も言う気にはなれないけれど…。私の部屋に来るの?言っておくけど汚いわよ。引っ越したままの状態だから、色々散乱してるし」
「ベッドがあるなら全然問題ないよ」
私が彼に同行するにあたっての問題は、もしかしたら彼自身の本質にあるのではないか。
そう思うしかない彼の返答に、引きつってしまう右の頬を必死で笑みへと変えていた。
私の鞄を肩にかけ、左手を強く握って歩き出す彼の背中を追いかける。
この姿を、確かに私が幼い頃に“見ていた”。
香る筈の無いエリカの香りが、私の記憶をどこかに連れて行ってしまう。
「カノン君。私は貴方に手を引かれて、若草の香る野良道を小走りで走ったわ。これは…事実の話よね?貴方はあの日、あの場所に…“居た”のよね…!?」
「…それ以上は…覚えてないんだ?」
「それ…以上?」
「嗚呼、ごめんごめん。覚えてないから、君はこうやって僕に手を引かれているんだよね」
何かを含んだように笑い、カノン君は振り向く事もせずに私の手を引いた。
忘れてしまった感情も思い起こされそうになり、私は心臓のあたりに手を置く。
定期的に脈を打つけれど、焼けついて離れないような不安定な感情。
レイの事を心配しないといけないのに、私の心は確実に違う方向へ足を向けていた。
でも今は、再び握る事の無かったかもしれないこの手の感触を、懐かしむ事にする。