揺れない瞳
『奈々子』と何度も口にする父さんからは、当時を思い出しているのか緩んだ感情と甘く光る瞳が見える。
離婚して何年も経つのに、今でもまだ母さんの事はいい思い出なんだろう。
聞かされた母さんとの過去は、決して負の感情に支配された思い出には聞こえない。

「でも、父さんは、奈々子の気持ちを誤解していたんだよな……」

「誤解?」

「奈々子が、俺の事を本当に愛してくれていたって事、わかってなかったんだ。長く付き合っていた昔の恋人に、思いを残していると思い込んでたんだ」

ははは……。
そう苦笑する父さんの表情からは、一瞬にして甘さは消えてしまった。
私を見つめる視線には後悔すら滲んでいて、母さんとの思い出を楽しげに話していた温度は一気に冷めたものに変わっていた。

どうして急に父さんの様子が変わってしまったのかわからないまま、じっと次の言葉を待っていると、苦しいとでもいうように、ようやく。

「奈々子は、ちゃんと俺の事を愛してくれていたんだ。
昔付き合っていた恋人ではなく、この俺を愛してくれていたから、離婚が決まった時に、結乃を手離したくなかったんだ。
たとえ俺とやり直す事ができなくても、俺の娘である結乃が自分のもとにいれば、結乃を通じて俺との関係が続くと……そう思っていたらしい」

淡々と、思い出すように呟く父さんの言葉を、しっかり聞いているつもりなのに、その言葉の意味がわからない。
離婚を決めたのは、父さんと母さん、二人の意思だったんじゃないのだろうか。
父さんが話してくれた母さんの思い出からは、本当に母さんの事が好きだったという印象しか受けない。
ずっと思い続けていた、可愛い女の子と恋人同士になれて嬉しくてたまらなかったと話していたと思う。
そして、母さんだって、ちゃんと父さんを愛していたのならば、どうして離婚する事を受け入れたんだろう。
父さんとの関係を途切れさせたくないという理由で、私を引き取ろうとするくらいに父さんを愛していたんじゃないのかな……。

確かに愛し合っていて、私という子供も生まれたのに、離婚を決めたのはどうしてなんだろう。

「父さんは……母さんを愛してたんでしょ……?」

恐る恐るそう聞くと、父さんは大きく頷いて、そして同時に苦しそうに

「愛し過ぎて、見えなかった。自分の思い込みが邪魔をして、奈々子の本当の気持ちが……見えなかったんだ」

そう呟いた。
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