揺れない瞳
まだ幼すぎた私には、母さんが伝えようとした言葉の意味を正確に理解できなかった。
父さんが母さんの事を好きではなくなったなんて、そんなの嘘だと思っていた。
忙しい父さんが、仕事に行ったまま帰ってこない毎日に気づいてはいたけれど、だからといって母さんの事を好きじゃなくなるなんて思えなかった。
三人で仲良く過ごす時間は永遠に続くと信じていたから、母さんの言葉に驚くばかり。
そして、母さんは父さんへの気持ちを振り切るかのように絵を描く事に没頭し、私の事は二の次で。
周囲からは育児放棄とみなされても尚変わらず。
結局父さんにも私を引き取りたい意思はなくて。
施設に預けられた私。
大人になった今、ようやく気付いた。
私はどうして父さんに対して距離を作り、嫌悪と拒絶を露わにしていたのか。
同じ親ならば、私をあっさりと見離して自分の世界に没頭した母さんに対しても同じ思いを抱いてもおかしくはないのに。
母さんへの気持ちの中には、憎しみや恨みなんてなくて、ただ可哀そうだと思う気持ちばかりが募っていった。
父さんの事が大好きだったのに、父さんから好きじゃないと言われて悲しみに包まれた母さんの泣き顔は、今も覚えてる。
どうして父さんは母さんを泣かせるんだろうと、子供ながらに悲しくなった。
時々、私も涙を流した。
母さんだけじゃない、私を見捨てた父さんの事を嫌いになるのには十分な時間が過ぎて、大きくなるにつれてその気持ちは濃くなっていった。
母さんを、そして私を悲しい目にあわせた父さんなんて、大嫌い。
無意識のうちに、私の心は父さん一人を嫌うようになっていったんだ。
だから、父さんとの距離ばかりを作って、母さんにはマイナスの気持ちを持たなかったのかもしれない。
離婚した当時、夫婦の間にあった複雑な事情は、夫婦の間でしかわからない。
今日、ちゃんと父さんと話をしたせいか、父さん一人を悪者にしていた過去を悔やむ気持ちも沸いてくる。
逆に、嘘をついてまで私を引き取って、それでいて私を見離した母さんに対しての感情は複雑なものに変わった。