遙かなる三増合戦
第一回は、天文22年(1553)更埴市八幡付近で衝突。
第弐回は、弘治元年(1555)、上杉謙信は善光寺に、武田信玄は川中島大塚にそれぞれ布陣するも、対陣200日目にて引き上げる。
第参回は、弘治3年(1557)、両軍8月下旬水内郡上野原で衝突。
第四回が、永禄4年(1561)、いわゆる史上に名高い川中島八幡原の激戦である。
「上杉年譜」は、この時の戦いの先陣として、北信濃武士団の名を記している。
村上義清の時には、高井郡には信濃源氏といわれる井上、須田、高梨等の諸氏があったが、これらの諸氏も大体、村上氏に従って行動したといわれている。
様々な文献より、我が氏祖の系を引く村上氏は、井上氏の血縁の同族なのだという。
そんな勢力を増し、井上郷を開拓し城をもった井上氏も、武田氏の信濃侵攻によって衰えてしまったのである。
天文22年(1553)、同族である村上義清は、上田原で武田信玄と戦った。
井上、須田等は、いずれも村上氏の客分的存在であったので、もちろん村上氏に従ったのであるが、義清は戦いに敗れて越後の上杉謙信のもとに走ったので、井上、須田なども一緒に越後へ逃れたのである。
高井郡に入った武田は、永禄2年(1559)、三月井上城を焼討にし、猛火は三日三晩にわたって燃え、広大を誇った井上城も跡形もなくなくなってしまったという。
だから、川中島の合戦では、第四回と第五回で、忠誠を誓い先陣を切って戦ったのだろう。
他にも膨大なる資料があるのだが、全てを紹介していたらきりがないので、ここまでにしておこう。
第弐回は、弘治元年(1555)、上杉謙信は善光寺に、武田信玄は川中島大塚にそれぞれ布陣するも、対陣200日目にて引き上げる。
第参回は、弘治3年(1557)、両軍8月下旬水内郡上野原で衝突。
第四回が、永禄4年(1561)、いわゆる史上に名高い川中島八幡原の激戦である。
「上杉年譜」は、この時の戦いの先陣として、北信濃武士団の名を記している。
村上義清の時には、高井郡には信濃源氏といわれる井上、須田、高梨等の諸氏があったが、これらの諸氏も大体、村上氏に従って行動したといわれている。
様々な文献より、我が氏祖の系を引く村上氏は、井上氏の血縁の同族なのだという。
そんな勢力を増し、井上郷を開拓し城をもった井上氏も、武田氏の信濃侵攻によって衰えてしまったのである。
天文22年(1553)、同族である村上義清は、上田原で武田信玄と戦った。
井上、須田等は、いずれも村上氏の客分的存在であったので、もちろん村上氏に従ったのであるが、義清は戦いに敗れて越後の上杉謙信のもとに走ったので、井上、須田なども一緒に越後へ逃れたのである。
高井郡に入った武田は、永禄2年(1559)、三月井上城を焼討にし、猛火は三日三晩にわたって燃え、広大を誇った井上城も跡形もなくなくなってしまったという。
だから、川中島の合戦では、第四回と第五回で、忠誠を誓い先陣を切って戦ったのだろう。
他にも膨大なる資料があるのだが、全てを紹介していたらきりがないので、ここまでにしておこう。