失われた物語 −時の扉− 《後編》【小説】



「…本当は…あの男…僕が殺そうと

思ってた…あの部屋から出るために

僕にはもう…殺意しか…自分を支え

るものが…なくて…嘘じゃない…よ

あのベッドの裏には往診に来た医者

のカバンから盗んだ使い捨てのメス

が絆創膏で留めてあるんだ…探して

みるといいよ…まだそこに貼り付い

てるはずだから…あそこは地獄だっ

た…だけどクスリが効いてるうちは

すべてが遠かった…一番救われたの

は兄貴が居なくなったことを考える

余地がなかったってこと…でも同時

に兄貴を探しに行くこともただ兄貴

のアパートで待っていることも…携

帯を取りあげられて兄貴からの連絡

があるかないか知ることさえも僕に

は許されなかった…だから僕はあの

男を殺して逃げるしかないと考えて

いた…でも状況はさらに悪くなって

いった…なぶり殺されるために僕は

あの鬼に買われることになったから

…リンチされてまわされて死にかけ

た…死地に送り込んだのはあの男だ

なのにあの男は僕を助けた…売り物

だから助けたって言った…でもあの

男は最後の夜に僕を手放すのは惜し

いって言った…その時僕はこんな地

獄で…誰かから愛されてた…そのこ

とに…感謝した…神にね…久しぶり

に神さまのことを思い出したよ…僕

はある人に期待を裏切られてからそ

のことを考えたくもなかったから…」


「君は…」

黙って聞いていた彼が不意に

僕に訊いてきた

「信頼していた誰かから裏切られた

とあのときも話していたな…ホテル

で私の質問に答えて…それが今回の

一件のきっかけのように思えるが」

彼の洞察はいつも通り正確だった





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