失われた物語 −時の扉− 《後編》【小説】
転がったペットボトルを
誰かが足下から拾ってくれた
その長くて骨張った指が
あの人に似ていて
僕は思わずその手の持ち主の
顔を見上げた
「大丈夫?」
ロングのパーマの茶髪を後ろで縛った
いかにも音楽やってそうな黒い服の
30歳くらいのにやけた細い男が
僕の肩を掴んでいた
「…」
僕は無言で首を横に振った
少し笑ってたかもしれない
大丈夫じゃないよ
大丈夫なわけ…ないじゃない
「君…独り?」
質問の意味が分からず
僕はそいつの顔を横目で見ていた
くぼんだ奥目がなめまわすように
僕を見ている
そいつは僕の腰に腕をまわしてきた
シルバーのブレスがジャラッと
音を立てた
「誰かと一緒に来てんの?」
ぼーっとしながら僕はまた首を
横に振った
そいつはなんか言ってるが
演奏は始まっていて
声が良く聞こえない
やたらと身体を寄せてくる
それは客に押されてるのか
自分から押しつけているのか
僕には分からなかった
僕が聞き取れないそぶりをすると
そいつは僕の耳に口を近づけて
「君…具合悪いんだったら一緒に
抜けて休んでも良いよ」
と低い声で言った
「んっ…」
低い声とともに
吐息のようなものが耳に触れた途端
身体が一瞬でぴくっと反応した
そいつはそれを見て
うっすらと笑った
僕は
拒むことを
しなかった