To.カノンを奏でる君
第0楽章≫卒業、桜、ピアノ。
今日、大人の階段を上った少女―──いや、女性は大事そうに卒業証書を抱き、踏みしめるように校内を歩いていた。
少し寂しさを宿した笑顔があるはずなのだが、愁いを帯びた真剣な表情だった。
窓の外はひらひらと舞う桜の花びら。一足咲く桜がこの学校には数本あるのだ。
同じ校舎で学び、旅立って行く同級生達は外で別れを惜しみ合っている。その中で彼女は一人、とある場所に向かっていた。
ピアノのある部屋、音楽室へ。
着くなり彼女は卒業証書を教壇に置き、換気の為に窓を開けた。
春風が桜の匂いに包まれて室内に入り込む。
それから彼女はピアノに触れた。
ポロン…
柔らかな音色が響き渡ると同時に、外に音が漏れる。古い校舎で防音設備がなされていない事が彼女とって好都合だった。
これから奏でる音色がどこまでも響くように。高く遠い空までも届くように。
彼女は静かに指を動かし始めた。
優しい音色から始まる曲調。
パッヘルベル作曲『カノン』
彼女にとって大切な想い出の曲。
そう、初めて覚えた曲はカノンだった。普通に考えれば有り得ない話。
教わったのはピアノ教室ではなく、幼なじみの男の子からだ。
3歳からピアノを習っていた当時5歳の彼は、ピアノが大好きでとても上手だった。彼の家からはいつもピアノが聴こえていた。
彼の家に行く度にピアノに触らせてもらい、彼の得意な曲でもあるカノンをゆっくり教えてもらっていた。
そんか彼女にもまた、音楽の才能があった。吸収が早く、彼の母親にピアノ教室を勧められてやっと通い始めたのだ。
お互い切磋琢磨し競い合っていたが、彼は元々病弱で、小学校卒業後に入院せざるを得なくなった。
彼の心臓は長くは持たない事を、彼女はその時に聞かされた。
中学校に通えずに入院生活を強いられた彼は、大好きだったピアノ教室も辞めてしまった。
それでも懸命に笑い続けた彼に、彼女がしてやれる事は少なかった。
今までを顧みながらピアノを弾く彼女の目から、幾筋もの涙が頬を伝う。
尚もカノンに詰まった想い出を辿りゆく。
そして、彼を想う──。