To.カノンを奏でる君
「祥、ちゃん……名前……」

「名前?」

「目を覚ましてから、初めてちゃんと呼んでくれた」

「そうか?」


 うるうると目に涙を溜める花音に驚き、祥多は慌てる。


「もう呼んでくれないと思ったぁ」


 花音はぽろぽろと涙を零し、子どものように泣きじゃくる。祥多はどうすればいいのか分からずにおろおろしていた。


 本当にころころと表情が変わる女だと、祥多は溜め息を吐く。

 以前の自分は、こうして泣く彼女にどう接したのだろうかと悩む。しかしどう悩んでも、当然、答えは見つからない。


 暫くして泣きやんだ花音は、雲間から日が射し込むように仄かに笑った。


「嫌って言うくらいしてあげる」


 美香子ではなく、花音に話を聞かせてくれと言って来た祥多に、感謝したいほど嬉しく思った。


 嬉しそうにニコニコしている花音を見て、祥多はガリガリと頭を掻き、溜め息を吐いた。


 本当に自分はこの女が好きだったのだろうかと、否定したいという思いが心の中で渦巻く。

 今の自分にとって花音は煩わしい存在だ。泣いて笑って怒って悲しんでの繰り返しで、必死に対応していると身が持たない。

 何とも言えず複雑な思いを抱えて祥多は最後の果肉をかじり、林檎の芯を捨てた。


 再び一息吐こうとしたその時、突然花音が大きな声を上げた。

 祥多は大いに驚き、後退る。


 花音はどうやら、祥多の頭上の壁ににかけられた時計を見て叫んだようだった。


「何だよ」


 呆れながら、叫んだ真意を問う。

 すると花音は苦笑し、壁に寄り添わせた肩かけカバンを持ち上げながら言った。


「これからボランティアの時間なの」
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