To.カノンを奏でる君
 しかし今日の気紛れは、すぐ傍に祥多がいる事によって──いや、祥多が目覚めた事によって当に決まっていた。

 ほんの一欠片でもいい、この曲に懐かしさを感じてくれたら。そんな思いで、花音は想い出の曲を奏でた。


 二人の始まりである『カノン』を。


 この三年間、いくらカノンを弾いても胸が苦しくなるだけだった。弾き終えた後に零れるのは、小さな溜め息だった。

 しかし、今日のカノンは違う。弾いている間でさえ心地好く、久し振りに心の底からピアノを弾く事が楽しいと感じた。


 目を閉じて優しい顔でカノンを奏でる少女──いや、女性を、祥多は眩しそうに見つめていた。

 何故だか懐かしいと思えるカノンを聴きながら、祥多は何かを思い出しかけていた。


 うんと小さな子どもの笑う声が、頭の中で響いている。


 祥多頭を押さえ、懸命に、忘却の果てにある記憶の欠片に手を伸ばしていた。しかしどうしても、それには届かない。

 あともう少しで届きそうだというのに。


 思い出せない苛立ちに顔を歪めた。


 どうして何も思い出せないんだ。そう思えば思うほど、その記憶の欠片から離れて行く。

 焦れば焦るほど、何も思い出せなくなっていた。


「祥ちゃん――」


 小さくも届いた心配そうな声に、祥多は我に返った。

 いつの間にか下げていた顔を上げると、今にも泣き出しそうな花音の目と出合う。
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