To.カノンを奏でる君
 部屋に籠った祥多は、一人ピアノに向かっていた。

 さすがに夜遅くに弾く事が迷惑になる事を理解している祥多は、ただ白と黒の鍵盤と向き合う。


 心静かに、目を閉じる。


 すると真っ先に浮かぶ、花音の笑顔。しかしそれは三年前の姿だった。


(俺が眠ってた三年間……花音を支えてたのはアイツ、か)


 変わってゆく花音を傍で見て来たのは、自分ではなく早河だった。そして今も花音の支えはきっと早河だ。


(もう……俺のこの手は、必要ないんだな? 花音)


 とは言っても、無力なこの手で何かをしてやれた覚えはないなと祥多は苦笑した。


 ──解放してやらなければならない。長年苦しめて来た“時枝祥多”から。


 今でも無力なこの手でも、少しだけ出来る事がある。花音を解放して、背中を押してやる事が出来る。

 例え自分が苦しむと分かっていても、祥多はそうする事を決めた。

 背負って行かなければならない。彼女を縛りつけ、苦しめた分の代償を。


 祥多と過ごした日々に悔いはないと、幸せだと言った花音。それだけで充分だった。


(俺は一生花音を好きなままでいそうだな)


 それはどうかと思ったが、それもいいとも思えた。

 一人の女性を愛し抜く人生。唯一、誇れるかもしれない。


 祥多はそんな冗談を思い浮かべながら、花音にいつ伝えようか考えた。

 カレンダーを見ると、明日は日曜日。病院にピアノを弾きに行く日だ。


 祥多は微笑み、決心した。

 明日、想い出のピアノ室で彼女を解放してやろう──と。





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