To.カノンを奏でる君
 箸を持ったまでは良いが、箸を持つ手が動かなかった。

 食欲がない。食べたいと思えない。

 献立が悪いのではなくて、気分が悪いのだ。


「どうしたの?」


 母の心配そうな声に、花音は何でもないと答え、無理やりご飯を掻き込んだ。

 気持ち悪さは我慢する。


「ごちそうさま」


 今、体調不良がバレてしまっては何かとまずい。

 花音は母に体調不良が悟られないように早めに家を出た。

 誰も歩いていない小道を、単語帳を片手に歩いて行く。


 願書を出して、一週間後に試験。それから面接を受け、結果が出るのは今月中だ。

 落ちたら祥多が悪く言われてしまう。花音は唇を噛み、身を引き締めた。















「おはよー!」


 席に着き、机と睨めっこする花音の背後を直樹が襲う。


「……あ、直ちゃん。おはよ」

「ノンノン?! 真っ青よ、大丈夫?!」

「うん」


 気持ちの悪さと腹痛を堪え、花音は笑った。


 そんな花音を、直樹は躊躇いもなく抱き締める。花音は驚き目を見開いた。


「無理してんな。つらいならつらいって言え」


 本当に本当に珍しく、直樹は“男”を見せた。

 しかも耳元で囁かれたので、花音の顔は真っ赤になる。


「ご、ごめん……」


 花音が謝ると、ハッとしたように体を揺らし、花音を離した。


「や、やぁね、アタシったら」


 おほほと無理やり笑い、直樹は焦る。どうやら“男”を出すつもりはなかったらしい。
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