『A』
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格闘技の世界には、“懐が深い”という言葉がある。
懐とは則ち胴体部分。
人体の急所は正中線に集中しており、正中線を攻撃するには胴体部に攻撃を届かせる必要がある。
格闘技、特に打撃格闘技にとっては、いかに相手の懐に飛び込むかというのが肝要となる。
紛れも無い達人の三人を相手にして、亮の取った構えは、身体を斜に構え片手を前に突き出した構えだった。
本来ならば、構える際両手はできるだけ己の身体の近くに置くというのが常識だ。
何故なら、身体の近くに手を配置することにより、攻撃にも防御にも素早く対応できるからである。
常識を打ち破ってまで構えた亮の構えの目的は、ズバリ“懐を深くする”ことにより、“距離のストレス”を作り出すことだ。
前に突き出された手を警戒し、相手はいつも通りに踏み込むことができなくなり、結果、攻撃を放っても届かない。
前に突き出された手により距離感が狂い、また、思うように踏み込めないというジレンマからストレスが溜まり、消極的な戦いしかできなくなるのだ。