潮騒
全てを話し終えたチェンさんは、息を吐き、どこか遠い日々でも懐古するような目をしていた。


苦しい過去を抱えた人なんて山ほど見てきたし、だからもう大概のことでは驚かないつもりだったけど。


沈黙の中で、言葉が出ない。



「俺ね、多分ヨンハみたいに笑ってたらみんなから気に入られるんだろうな、って思ってるからこんななのかもね。」


だから彼はいつも、張り付けたような笑みを浮かべているのだろうか。


きっと誰より愛されたいと望む人。


ひとりでいることが嫌いなヤツだから、と前にマサキが言っていた言葉を思い出した。



「まぁ、戸籍がないってのは、ちょっと正確じゃないんだけど。」


「…え?」


「だからぁ、一応あるにはあるんだよねぇ。」


これ、とチェンさんが見せてくれたものは、財布から取り出した運転免許証だった。


“山野康介”と書かれたそこには、紛れもなく彼の顔写真がある。



「言っとくけど、偽造じゃないよー?」


なんて、それをひらひらとさせながら、



「戸籍って結構安く売買されてるの、知ってる?」


「………」


「いわゆるお金に困った浮浪者って言われてる人たちが、自分の戸籍を売るの。
まぁ、普通はヤクザなんかがそれを使って架空口座とかを作ったりするんだけど。」


つまり彼は今、世間的には“山野康介”さん。


もちろんそれがあれば、車を買ったり部屋を借りたり、そんな当たり前のことが普通に出来るということだ。


この世に存在を許されなかったチェンさんの、それが唯一の生きる術。


あたしはきっと、彼を責めることなんて出来ないと思う。

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