潮騒
その名を呼んだのは初めてだったのかもしれないけれど。


「ん?」と首を傾けた彼に、



「どこに向かってるの?」


「わかんねぇけど、どっか行きたい?」


少し驚いた。


プライベートなのだと言った彼は妙に優しくて、



「この街じゃないとこなら、どこでも良いよ。」


だからあたしは、考えるより先に言葉を手繰り寄せていた。


マサキはまた笑う。



「じゃあ、ちょっと遠いけど、連れてってやるよ。」


どうしてあたしはこんな男の助手席で、まるでカップルみたいな会話をしているのだろうか。


ただ少し、疲れ過ぎてしまったのかもしれない。


酒を飲むことにも、客に愛想をすることにも、体を売ることにも、何よりお母さんとの関係にさえも。


すると彼は、信号待ちで停車していた車内で、ふとあたしの頬に触れる。



「お前、ホントは気分悪ぃんじゃねぇのか?」


「………」


「大丈夫か?」


優しくされることには慣れていない。


だからまた目を逸らし、平気だから、なんて言葉しか返せなかった。


気を抜けば、乱されてしまいそうで怖くなる。

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