潮騒
何でもないから、何でもないから、と繰り返すように呟くと、彼はあたしの様子にため息を混じらせる。



「だから寝てろっつてんだろ。」


聞かれなかったことに、ひどく安堵させられる。


それでもお母さんに殴られた痛みを今更になって思い出し、体は小刻みに震えていた。


寂しかった、怖かった、悲しかった。


そんな、取り留めもなく頭に浮かんでは消える記憶に、蝕まれてしまいそうになる。



「何か知らねぇけどさ、辛いもんなら捨てちまえ。」


それが出来たらどんなに楽か。


でも、そう言って指の先を絡め、手を繋いでくれたくれた彼のぬくりもりが、ただあたたかかった。


だから今は少しだけ、それに甘えてしまう自分がいる。



「少なくとも今ここには、俺とお前だけなんだから。」


泣いてしまいそうだった。


けれど彼の方がもっと悲しそうな顔をしていたから、涙が出ることはなかった。


マサキが何を抱えているかなんてあたしは知らなかったから、



「ありがとね。」


一瞬でも、心が軽くなった気がした。


闇に包まれた世界の中で、オーディオから流れるのは、流行りのバラード。


別れの曲というのは笑えるけれど。


でもそれに身を預けるように目を瞑ると、意識が混濁していった。


世界の果てに行けたなら、あたしは上手く笑うことが出来るだろうか。

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