Adagio
もうピアノのことなんて考えたくないのに、頭の中で流れるのはコンクールの課題曲。
指運びをこうすればもっと速く弾けるんじゃないかとか、ここをもっと強く弾いた方が感情的に聞こえるんじゃないか、とか。
あぁもう、考えたくもないのに。
あいつの言葉で俺のピアノは全否定されたも当然なのに。
増原奏子、だっけか。
あんなギャルのくせに名前はいたって平凡だ。
家に入ろうとすると、内側からいきなりドアが開いた。
俺と同じ真っ黒い髪をした少年が俺を見つけて笑う。
「お帰り、兄貴」
「ただいま、浅葱(アサギ)」
弟の浅葱は、俺のこんな思いなんて知りもしない。