Adagio


さっきまで俺が、こいつとあんな至近距離にいたのか。
そう思うとむず痒い気持ちになる。

もっと香水臭いと思っていたのに、意外にも奏から香水の匂いはほとんどしなかった。

ただ、ミルクのように甘くて柔らかい香りがした。


「アタシ、どうすればいいと思う」

「…?どう、って」

珍しく言い淀むと、そのままピアノ椅子に腰かけて下手くそな演奏を始める。

音楽科連中が聴いたら吐き気がしそうな下手さだけれど、その時はどうしてかそこまで下手だとは思わなかった。


弾き出されたのは、今流行りのJ-POPだった。
聴いたことはあるけれどそれの歌詞まではよくわからない。

そんな曲をたどたどしく弾きながら、奏はぽつりと話しだす。

「昼休みが終わって、メイクもどろどろで髪もびっしゃびしゃで。誰も近づかないだろうなって思ってた」


普段は弱さをおくびにも出さない表情が微かに歪み、白鍵の上を滑る指が僅かに震える。

この手を差し出すことができたら俺も、前に進めるだろうか。


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