Adagio


もうすぐ曲のサビに差しかかるという所で、奏の指が止まった。

「誰も近づいてこなかったんだよ。だけどさ…」

差しだしかけた手を引っ込めて、か細い声に耳を寄せる。

雨は止んだというのに、空には未だ雲ばかりが目立っていた。


「クラスの、沢渡(サワタリ)っていう子。アタシが知ってるのは向こうの名字だけだし、向こうだってアタシの悪い噂しか聞いたことないはずなのに」

少しずつ声に含まれる震えが大きくなっていく。

痙攣するようにひくつく喉が見ていられないのに、見るしかなかった。


「大丈夫?って聞かれた。すれ違う時ほんの一瞬、アタシに言ったのかもわかんないぐらい、小さい声だったけど。
でも、ちゃんと聞こえたんだ」

浅くて呼吸にもならないような呼吸を何度も繰り返し、そこに至ってようやく彼女が泣きそうなことに気付いた。


誰かに冷たい目で見られることに慣れ過ぎた彼女は、だから誰かの優しさに極端に弱い。

泣くのかと思って慰めの言葉はたくさん用意したけれど、彼女は歯を食いしばったまま結局泣かなかった。


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