Adagio
けれどそんないい気分で家のドアを開けた瞬間、息が止まるかと思った。
玄関にあったのは浅葱が愛用している、目立つ原色のスニーカー。
それから…。
「…っ」
吐きだしかけた息をグッと吸い込んで、俺は素知らぬ顔で自室へ向かう。
誰にも自分の存在を気付かれたくなくて、息を殺すのに必死だった。
だけど。
「あれ、兄貴!お帰り!」
浅葱の部屋のドアが開いて、先ほど玄関に淡く漂っていた花のように清純な香りが一層強くなり、俺の鼻腔を刺激する。
昨日俺がアドバイスした、白いカッターシャツにジーンズというシンプルな格好の弟。
しっかり目を開けなければそれがわからないぐらい、視界がチカチカと点滅していた。
平静を、装わなければいけない。
「利一?」
玄関にあったのは、どう考えても母さんが履くようなものじゃない茶色のウエスタンブーツ。
あぁ、やっぱり見間違いなんかじゃなかった。