Adagio
「大丈夫?利一」
昔のことを思い出していた俺を、若菜の声が引きずり戻す。
「顔色が悪いみたい」
そっと額に触れた手が、思っていたよりずっと熱くて。
「…っ大丈夫、だから」
ずっと触れていてほしいなんて、浅葱の前で思ってはいけないことを思ってしまった。
これ以上若菜の側にいるとおかしくなりそうで、俺は無理やり自分の気持ちを若菜から引き剥がす。
「ピアノの練習、しないといけないんだ。そっちはデートなんだろ、楽しくやってろよ」
デート、と口にした瞬間胸の奥がじりりと焦げ付くように痛んだ。
浅葱と若菜が、面白いほど顔を赤くしてうつむく。
口の中がカラカラに乾いていたから、俺は何も言わずに部屋へ戻った。
ドアを閉めた刹那、この世に独り取り残された気分になった。