Adagio
ピアノと触れあってこんな気持ちになるのは初めてだった。
また弾かなければいけないのか。
うんざりしていた気持ちが、今ではいつまでも弾いていたいと叫んでいる。
弾き終わった後、大して難しい曲でもないのに息が上がって、それがどれだけ全力を注いだのか思い知らせてくれる。
「利一」
いつの間にか俺の横に来ていた若菜がピアノから離れた手を握る。
「ありがとう。本当にいい演奏だったよ。…利一を、好きになってよかった」
名残を惜しむように彼女の指が一本一本俺から離れていく。
以前の俺が何度も夢見た想いは、少しだけその形を変えて昇華した。
ピアノに対しても彼女に対しても誠実になれたのは、若菜の言葉のおかげももちろんあるだろう。
だけど、俺のまぶたに色濃く残るのは。