Adagio
呆けている俺を置いて、若菜が帰って行く音がした。
ドアが閉まる音のすぐ後に、見慣れた影が俺に覆いかぶさる。
「…どうした、浅葱」
振り向かないまま答えると、彼は怖気づくように一歩退いた。
「兄貴。お、俺、」
タン、と指で鍵盤を弾くとびくりと影が揺れた。
大方さっきの弁解でもしに来たのだろう。
何も知らずに傷つけてごめんとでも言いたいのだろう。
だけどこんなに爽やかな気分の時にそんなことは話したくもなくて、俺は静かに言い放つ。
「いいよ、何も言わなくて。お前に悪気が無いのはわかってる」
そう言って立ち上がろうとした足は、彼の声によって簡単に打ち崩された。
「違う…っ!俺は、兄貴が若菜を好きなことを知ってた…!!」