Adagio


自分の私情を曲に込めるなんてバカみたいだと思っていた。

俺たちは作曲家の気持ちをくみ取り、それをそのまま観客に伝える伝達者であり、それ以上の感情はいらないと。


だけどそうじゃないんだ。

自分の経験や想いを作曲家の想いの上に重ねて、俺たちは新しい曲を創り出すことができると気付いたから。


「駒田も、楽器のことで悩んだりしたのか?」


あまり参考になる意見は得られないだろうと思っていたけれど、駒田の口からは意外な真実が飛び出してきた。

「もちろんあるよ。だって俺は最初、ピアニストになるつもりだったんだから」


そこらにあった椅子を引きずって来て、駒田がそこに気だるそうに腰を下ろす。

何も言うべきか迷っている俺に向かって薄く笑うと、小さな声で語り始めた。

「本当だよ。俺が最初に選んだ楽器は、チューバじゃなくてピアノだった」


考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。

小さい頃にみんながみんな、自分が今演奏している楽器には出会えていないこと。
その楽器の名前すら知らないこと。


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