Adagio


「ちょっと退いて」

奏に言われ、俺はピアノ椅子の左端まで体をずらす。

滑らかなベルベットシートのピアノ椅子に腰かけ、ネイルでゴテゴテの指が鍵盤の上に乗せられる。


「ピアノ、弾けるのか?」

その外見だととてもそうは思えない。

奏が猫のように丸く鋭く光る眼をこっちに向け、片方だけえくぼを作る。

「下手なんだけどね」


そうしてその指で紡ぎだされる曲は……。





「…すげぇ下手」

思わず呟いてしまうほどに下手だった。

俺がピアノを始めてすぐの頃は恐らくこんな演奏だったのだろう。


悪く言うと、テンポもそこに込める情感もめちゃくちゃだった。


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