Adagio


顔を上げると、浅葱がまだ着替えもしないまま部屋に入って来る所だった。


「ちょ、勝手に入って来るなよ」

「いいだろ別に。兄貴の部屋なわけじゃないんだし」

その会話が何だか奏との会話を思い出させて少し憂鬱になる。


一般家庭の我が家には、どういうわけかグランドピアノが存在する。

母さんの友達が譲ってくれたのだという話だけど、それにしてもこんな大きくて高価なものを譲ってくれるなんて、懐の広い人だ。


おかげでこうやってピアニストへの道が目指せることを感謝しなくてはいけない。

けど……。

「何だよ兄貴、弾かないのか?」

「曲想を練ってるんだよ、邪魔するな」


実際に指に音を乗せる前に、作曲者の境遇、楽譜の強弱記号などから俺たちは彼らの気持ちをくみ取らなければいけない。

これを曲想と言って、これ次第で演奏される曲はまったく違うものになっていく。


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