Adagio
ようやくいつもの調子を取り戻し始めた奏の背中に、俺はささやくような小さい声で言う。
「人が来るって言ったけど、今日の練習は俺一人になった」
去りかけた奏がぴたりと足を止め、テカテカに光る唇を噛みしめてこっちを睨む。
「…なんでよ」
それを、言わなくちゃいけないのか。
さっきの音を思い出して喉の奥から胃液が這い上がってきそうだ。
辛かった、どうしようもなく。
怖かった、泣いてしまうほど。
「俺は自分より高みにいる人を見上げることに耐えられない」
ずっとそうだった。
だから誰かを見下すことで生きてきた。
技術さえあればそうやって生きることが認められて、上手であるなら自分より下手な者を見下しても許された。
そういう世界でしか息をしてこなかったから、自分と同い年の自分より上手い奴を見つけてこんなにも動揺している。