スピカ
 頬に熱が燈った。温かい指と、少し冷たい滑らかな爪先。それから、掌。
目尻をなぞり、涙の軌跡を指で拭う。

正面に目を当てると、あの黒い瞳が赤色を映していて、まるで血の色みたいだった。

「何ですか」

「泣いてた?」

「……」

起きて、いきなりそれですか。
否定も肯定も出来ない。泣きたくて涙を零した訳じゃない。ただ、勝手に流れていっただけなのだから。

「そっか」

何も答えていないのに、そう呟いて眼を細める。あたしが何か納得のいく反応をしたのか、それとも気遣いのつもりなのか。全くもって、この人の考えている事は分からない。
顔に触れていた手がそっと離れていく。

「雅ちゃんも泣くんだね」

「どういう意味」

「……言葉通りだよ」

ふ、と微笑むのと同時に、煙草の香りが届く。こんな匂い、ストレスを和らげる事は疎か、落ち着く訳がない。舌の奥を引っ張られるような、不安を掻き立てる感じ。
楸さんは何のために煙草を吸うのだろう。やっぱり、分からない。

その眼は、何を見ている?
黒い瞳の行方なんて、本当は分からないんだ。逃げるように、あたしは天井の方へ顔を背けた。

「楸さん」

視線を動かすのが感じられる。
その反対側、ブラインドの間からは朱を帯びた橙の光が差し込んでいる。
伏せたくなる目を、わざと空で浮遊させるよう、必死で努力した。

「ごめん、今日の事は忘れて」

「え……」

「忘れて。全部」

記憶に、刻まないで。
楸さんが傍にいてくれた事、あたしはちゃんと覚えているから。
だからどうか、態度を変えたりしないで。心の底で気遣ったりしないで。忘れて。

「なんで……」

「何でも」

故意に、ぴしゃりと言葉を遮った。尖った口調が沈黙を更に気まずくさせる。
これ以上、深入りされちゃいけない気がした。

「……ごめん。そろそろ帰って下さい」

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