スピカ

「あ、雅?」

喉が渇いたから冷蔵庫を覗いていると、お母さんに呼び止められた。
リビングにいるのはお父さんとお母さん2人だけで、どうやら蛍姉は今日も帰って来ていないみたい。

「何?」と素っ気なく返事をし、ペットボトルの蓋を開ける。炭酸じゃないくせに、プシューと音が鳴った。

「集金行って来てくれない?」

「はぁ? こんな時間に?」

「うーん……夕方行ったんだけど、楸君、留守だったのよねぇ。今の時間帯ならいると思うんだけど」

「楸さん……また家賃滞納してんの?」

呆れて溜め息が出る。
払っては溜め、の繰り返しで、本当に学習能力のない奴だ。馬鹿じゃないの。

「まぁ、滞納って言うほどでもないわよ。 先月の分がまだっていうだけ」

「それを滞納って言うんだって」

お母さんは、楸さんに甘い。
そりゃあ、3年の付き合いにもなれば、我が子のような気持ちになるのかもしれないけど、うちが大家である限り、楸さんは客みたいなものでしょ。

「とにかく行ってきてちょうだい。どうせ暇なんでしょ?」

どうせ、って……。
せっかく、珍しくも勉強していたのに、かなり心外だ。これも、今まであたしが勉強しなかった結果か。

「へーい」と適当な返事を返し、水を口へ流し込む。冷たい液体が食道を伝っていくのが何となく分かる。

楸さんの所、か。
あんまり行きたくない……かもしれない。いつも行きたい訳じゃないけど。

あの後、楸さんは以前と変わらず家に来ていたけど、怒ってる様子なんて全く見られなかった。
でも、どこか違う。へらへら笑うのも、厚かましいのも、暇があれば誰彼構わず口説くのも、変わりはないのに。
気持ち悪い違和感だけが、あたしの5感に残る。楸さんは、前とは違う。


半分になったペットボトルを元あった場所へ戻し、冷蔵庫を閉める。
リビングにあったパーカーを羽織ると、仄かに蛍姉の香水の匂いがした。
< 118 / 232 >

この作品をシェア

pagetop