スピカ
 煙草と香水の匂いが、脳まで侵食していく。
バタンとドアを閉めると、楸さんは肩に乗せていた手をそっと退けた。

「どうぞ。汚いけど」

本当に汚い。前に来た時よりかはマシだけど、男の1人暮らしって、皆こんなものなのか。
不貞腐れながらも、言われた通りに部屋の中へ足を踏み入れる。

整えられていないベッド。
いっぱいになった灰皿。
飲みかけの缶コーヒー。
脱ぎっ放しのジャンパー。

どれも、楸さんの匂いがする。

「何か飲む? ココアはないけど」

「別にココア好きじゃないし」

楸さんはしゃがんで黒い冷蔵庫を覗き込むと、うーん、と小さく唸った。ここからでは、ビールの缶以外に中身が見えない。

「えっと、りんごジュースかいちご牛乳かコーヒー……無糖だけど」

「……やっぱいい。要らない」

そう、と呟き、冷蔵庫を閉める。
音は、何もない。キーンと耳鳴りがしそうなくらい静かだ。
人の部屋で突っ立っているのも何だか変な気がして、ゆっくり腰を下ろすと、楸さんはすぐ真横にすとんと座った。

ぷしゅっとプルタブの開く音に、横目をやる。黒い缶に口をつけ、楸さんは喉を小さく動かした。
砂糖の入っていない、苦いコーヒー。
楸さんの視線は遠くにある。壁よりも、ずっとずっと向こう。


大家をしているけれど、そういえば、あたしはあんまりアパートの中に入った事がない。どんな造りなのかは知っていたけど、こうやって座ってみると、やっぱり違う。

何だか、息苦しそうだ。
特に、楸さんの部屋は。
テーブルや箪笥は透明なものの、冷蔵庫も黒、布団も黒、絨毯も黒。
狭い上に黒ばっかりで、如何にも不健康そうな感じがする。

「……黒ばっか」

そう呟くと、小さく笑いを零し、楸さんは缶コーヒーで口を閉ざした。
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