スピカ
 生き物っていうのは本当に凄いもので、環境に応じて変化を遂げる機能を持ち合わせている。それは人間も例外じゃなくて、どうやら、そこにはあたしも含まれるらしい。

あんなに苦手だった匂いにも、すっかり慣れてしまった。かと言って、決して好きになった訳ではないけれど。

今も、纏わり付く煙が嗅覚を刺激して仕方がない。

煙草の先から断絶なく放たれるものより、口から出ていく煙の方が、どこか有害に見える。気がする。どうして、わざわざ自分を蝕むのだろうか。
好きでもないし、吸いたいとも思わないあたしには、喫煙者の気持ちは微塵も分からない。不可解な行動でしかない。

ただ無心で、テーブルに置かれている濃藍の箱に手を伸ばした。

「“Spica”……?」

楸さんの吸っている煙草の名前。冷白色の文字が綴るのは、確かにその名前だった。

「スピカ。星の名前だよ」

「星? 何の星?」

いちいち口を塞ぐ仕種に、イライラする。煙草が唇から離れ、煙を吐き出す時間が焦れったいのだ。

「乙女座の1等星だよ」

「ふーん」

「ちなみに、俺も乙女座」

……聞いてないって。大体、乙女座の人がどの季節に生まれたのかさえ、あたしには分からないし。

乙女座の星の名前が煙草に使われているなんて、皮肉なものだ。煙草に例えるには不似合いなほど“乙女”は清純過ぎるじゃないか。

「乙女座っていつ見えるの?」

「春、かなぁ?」

多分、と加え、再び口を塞ぐ。
煙が部屋に充満していて、かなり空気が悪い。空気が心なしか紫霞んで見えるけど、それでも、窓を開ける気は起きない。
寒いからじゃなくて、何となくこの中にいてもいいと思ったからだ。全く、矛盾している。

「乙女座って小さな星で出来てるんだよ。スピカ以外、ほとんど見えないくらい」

「そうなんだ」

星は嫌いじゃないけど、あまり詳しくは知らない。乙女座の形さえも分からない。
それでも、興味が注がれるのは不思議な話だった。
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