スピカ
「雅ちゃん、お帰り」

「わっ」

鍋に気を取られていたせいか、背後から聞こえて来た声に、心臓が跳ね上がりそうになった。

「びっくりしたぁ。来てたんですか、楸さん」

「鍋って言ったら俺の出番でしょう」

「鍋じゃなくたって、来てるじゃん」

「ほらほら、駄々捏てないで早く手洗って来て」

渋々、言う通りに従う。楸さんは満足そうにそれを見ると、「おじさん、鍋の番変わります」とテーブルの方へ歩いていった。

少しわざとらしいけど、この男はやっぱり媚びを売るのが上手い。抜目がないと言うか、卑しいと言うか。その分、うちの食費が嵩むのだから、媚びくらい売るのも当然だと思うけど。

「楸君は本当、気が利いて助かるわぁ。しっかり食べていってね!」

「わーい。ありがとうございます」

調子の良い人だ。
無邪気な笑顔を作り、お母さんに向ける。楸さんが可愛くて仕方がないお母さんは、一気に有頂天に。

蛍姉がいなくなってから、楸さんが家に来る事が多くなった。遊びに行かない日は、ほとんど毎日ご飯を食べに来るし、入り浸っている。
理由は分からないけど、あたしにはそれで良かった。寂しさを感じる間を埋めるように、いつも賑やかだったからだ。

あたしがちゃんと帰って来るようになったのも……そのせいなのかもしれない。


「阿保らし……」


楸さんは箸立てから器用に青い箸2本だけを取り、煮え滾る野菜の群れを箸で突き始めた。
< 155 / 232 >

この作品をシェア

pagetop