スピカ
 あたしは、神や仏のような、不確かなものは信じない。だけどもしも、この世に神様がいるとしたら、なんてトリッキーな奴なのだろう。

人に与えたものが言葉なのだから。
どうせ形にするのなら、中身の有無が分からない言葉よりも、気持ちを形に出来るように創ってくれれば良かった。

気持ちなんて不確かなもの、伝えるには、言葉だけじゃあまりに足りな過ぎる。

見えないから怖い。
だから、信じなかった。


でも、今は――……


「さ、帰ろっか」

短くなった煙草をぽとりと落とし、何の変哲もなく火を足で踏み消す。地面へと伸びていた睫毛が、少し離れた所へ移った。

「……寒い」

鼻を啜ると、楸さんは自分の腕を掴んでわざとらしく身を縮めた。それから、小さな歩幅で、ボロアパートに帰るよう足を進めていく。
その横をとぼとぼ歩きながら、あたしは小さく笑った。

「どうして、いつもこうタイミング良く楸さんが居合わせるんだろ」

「あはは、何でだろ。ストーカーごっこ、かな?」

「わざわざストーカーにならなくても、帰る所は一緒じゃん。楸さんにはストーカーする理由なんてないでしょ」

そう言うと、黙るか笑うだろうと思った。
けれども、楸さんは黒い眼を遠くに投げたままで。少し優しい声でこう言った。

「独りで泣かせたくないから、だよ」

纏わり付く鎖が、ぎゅっと心臓を締め付けるような感覚に陥った。声が木霊して、頭の中を埋め尽くしていく。
それが楸さんのテクニックだ、と瞬時に判断するのでさえも鈍らせ、何だか変な気分になってしまった。

でも、相手は楸さんなのだ。

そう考え直してしまうのが、あたしの性格であり、性分というものなのだろうか。


「もういいよ、口説き文句は。それって癖なんですか?」

そう言った直後に、まずった、と思った。言葉の節々が、どうしても尖ってしまう。

「癖、って……そんなんじゃ、」

「無意識? あたしにまで、いちいち口説き文句使わなくてもいいんですよ」

楸さんの足がぴたりと止まった。さすがに怒らせてしまったかもしれないと、慌てて後ろへ振り向く。
分かっていても、あたしはいつもきつく言ってしまう。

黒い眼は真剣に、そして少し哀しく、目の前の女を睨んでいた。
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